「ダンダダンのバトルシーン、最高すぎる!…でも、正直あの恋愛パートって必要?」

今、この画面を見ているあなたは、きっとそんなモヤモヤを抱えながら検索してたどり着いたのではないでしょうか。圧倒的な画力で描かれるオカルトバトルの疾走感。それなのに、いいところで水を差すように入ってくるじれったいラブコメ展開。「テンポが悪い」「見ていて恥ずかしい」と感じてしまうのは、あなただけではありません。

この記事では、多くの読者が密かに感じている「ダンダダン恋愛不要論」の正体を徹底的に言語化しました。なぜ私たちはこれほどまでに恋愛要素を「ノイズ」と感じてしまうのか? そして、それでも読むのをやめられない理由とは? ファンの本音を代弁しつつ、ストレスなく作品を楽しむためのヒントをお届けします。読み終わる頃には、そのモヤモヤが少しだけ「愛」に変わっているかもしれません。

なぜダンダダンの恋愛要素は「いらない」と言われるのか?

ダンダダンといえば、圧倒的な画力で描かれるオカルトバトルの疾走感が最大の魅力ですよね。しかし、物語が進むにつれてSNSや口コミサイトで目立つようになってきたのが、「恋愛要素が邪魔」「ラブコメ展開はいらない」という辛辣な意見。なぜこれほどまでに多くの読者が、恋愛パートに対してアレルギー反応を示してしまうのでしょうか? ここでは、多くのファンが抱えている「モヤモヤの正体」を、3つの視点から言語化していきます。

バトルの疾走感が「ラブコメ展開」で急停止するストレス

多くの読者が感じている最大の不満は、バトルのテンポを恋愛が阻害している点にあります。ダンダダンの魅力はなんといっても、ジェットコースターのようなスピード感あふれる戦闘描写です。妖怪や宇宙人とのギリギリの攻防に手に汗握り、「次はどうなる!?」とページをめくる手が止まらなくなるあの感覚こそが、この作品の真骨頂と言えるでしょう。

しかし、そんな最高潮のタイミングで唐突に挟まれるラブコメパートは、読者にとって「急ブレーキ」以外の何物でもありません。命懸けの戦いの最中や直後に、ウジウジした恋愛感情の描写が入ることで、高まったテンションが一気に冷やされてしまうのです。この「熱量の落差」こそが、「恋愛要素いらない」と言いたくなる根本的な原因と言えます。

硬派なオカルト世界観にそぐわない「ベタなすれ違い」

次に挙げられるのが、作品が持つ独特な世界観と、描かれる恋愛模様のミスマッチ感です。ダンダダンは都市伝説やUMA、幽霊といったアンダーグラウンドで不気味なモチーフを扱っており、その硬派で少しダークな雰囲気がコアなファンを惹きつけています。ターボババアやセルポ星人のような、生理的な嫌悪感すら催すような強烈なキャラクターデザインも、この作品ならではの魅力です。

それなのに、恋愛パートになると途端に「昭和のラブコメ」のような、ベタすぎるすれ違いや誤解が繰り広げられます。「話せば3秒で解決する誤解」を何話にもわたって引きずる展開は、あまりにもご都合主義的で、緻密に描かれたオカルト世界から浮いてしまっています。「シリアスな怪談を聞きたいのに、急に甘ったるい少女漫画を見せられている」ような違和感が、読者の没入感を削いでしまうのです。

超絶作画の無駄遣い?キャラの顔芸やテレ顔への違和感

そして無視できないのが、「龍幸伸先生の神懸かった画力をどこに使っているんだ」というファンの嘆きです。龍先生のペンタッチは緻密かつダイナミックで、特に背景の描き込みやクリーチャーの造形美は、現在の少年漫画界でもトップクラスと言われています。読者はその圧倒的な画力で描かれる、ド迫力のアクションシーンを期待して単行本を手に取っています。

だからこそ、その超絶技巧が「キャラクターの赤面」や「コミカルな顔芸」ばかりに費やされると、「宝の持ち腐れ」と感じてしまうのです。もちろん、表情豊かなキャラクターも魅力的ですが、恋愛パート特有のデフォルメされた表情や、過剰なテレ顔の連発は、せっかくの画力を安売りしているように見えてしまいます。「そのカロリーを、もっと別の怪物やエフェクトに使ってくれ!」というのが、画力に惚れ込んだファンゆえの切実な本音なのでしょう。

「恋愛ノイズ」さえなければ神漫画?

「もしもダンダダンに恋愛要素が一切なかったら…」。そんな想像をしたことはありませんか? 恋愛パートに対する不満が高まると、どうしても「あのシーンさえなければ、もっと完璧な作品になっていたはずだ」という思考に陥りがちです。では、実際に恋愛要素を完全に排除した場合、ダンダダンという作品はどう変化するのでしょうか? ここでは、恋愛ノイズを取り払った「ifの世界線」をシミュレーションし、私たちが本当に求めている物語の形を探ってみましょう。

もし恋愛要素を全カットしたら物語はどうなるか

まず間違いなく言えるのは、物語の進行スピードが劇的に上がり、ストレスフリーな読書体験が得られるということです。現在のダンダダンにおいて、恋愛パート(特にすれ違いや嫉妬による停滞)は全体の尺のかなりの部分を占めています。これらをすべてカットし、怪異との遭遇とバトルだけに焦点を絞れば、毎週のように新展開が押し寄せる、文字通り「ノンストップ・オカルトアクション」が完成するでしょう。

しかし一方で、物語に「深み」が欠けてしまうリスクも否定できません。ただ敵が出てきて倒すだけの繰り返しになってしまい、読者が飽きてしまう可能性もあります。また、日常パートが減ることで緊張の緩和がなくなり、読み疲れを起こすかもしれません。「恋愛はいらない」と言いつつも、それが完全に消滅すると、今度は「味気ない」「ただのバトル漫画になった」という別の不満が生まれる。このバランスの難しさこそが、連載漫画の宿命なのかもしれません。

オカルンの「自信獲得」という成長軸が弱くなるジレンマ

恋愛要素を排除することで生じる最大の問題は、主人公・オカルン(高倉健)の人間的な成長が描きにくくなる点です。いじめられっ子で自分に自信がなかったオカルンが、恐怖に立ち向かい、男としての強さを獲得していく過程は、この作品の重要な縦軸の一つです。そしてその原動力となっているのが、「モモ(綾瀬桃)を守りたい」「モモに認められたい」という、紛れもない恋心です。

もしこの動機がなくなれば、オカルンが命懸けで戦う理由が弱くなってしまいます。「友人として守る」という動機だけでは、あの異常なまでの執着や、限界を超えた覚醒シーンに説得力が生まれにくくなるでしょう。恋愛描写そのものは「くどい」かもしれませんが、それがオカルンというキャラクターの核となる「自己肯定感の獲得」に直結している以上、完全に切り離すことは物語の構造上、非常に困難であると言わざるを得ません。

読者が本当に求めているのは「恋愛」ではなく「信頼」

結局のところ、私たちが「いらない」と感じているのは「恋愛」そのものではなく、その表現方法にあるのではないでしょうか。読者が真に見たいのは、顔を赤らめてモジモジする二人ではなく、背中を預け合い、阿吽の呼吸で強敵を撃破する「最強のバディ(相棒)」としての姿です。言葉にしなくても通じ合っている、魂レベルでの信頼関係。それこそが、この作品に求めている「絆」の形なのです。

「恋愛」というフィルターを通さなくても、二人の関係性は十分に尊く、魅力的です。過剰なラブコメ演出によって、その本質的な信頼関係が見えにくくなっていることが、読者のイライラを増幅させている原因なのかもしれません。「恋人になる過程」を見せられるよりも、「戦友として完成されていく過程」を見せられる方が、この作品のファン層には遥かに刺さる。それが、多くの読者が抱く「if」の結論ではないでしょうか。

それでも恋愛要素が描かれ続ける「大人の事情」と「作者の意図」

ここまで「恋愛はいらない」という読者目線で議論してきましたが、視点を少し変えてみましょう。これほど批判の声がありながら、なぜ作者や編集部は頑なに恋愛要素を描き続けるのでしょうか? 単なる作者の趣味? いえ、そこには大ヒット作品ならではの計算された戦略や、物語の根幹に関わる重要な意図が隠されている可能性があります。ここでは、少し冷静になって「なぜ恋愛が必要なのか」という裏側を考察してみます。

ジャンプ+という媒体における「ラブコメ」の重要性

まず考えられるのが、掲載媒体である「少年ジャンプ+」の読者層とマーケティング戦略です。ジャンプ+は非常に幅広い層に読まれており、コアなバトルファンだけを相手にしていては、これほどの国民的ヒットにはなりません。実は、ライトな読者層や女性層を取り込む上で、「ラブコメ要素」は最強のフック(引き)になります。SNSでバズる話題も、意外とバトルの決着より「尊い」恋愛シーンだったりすることが多いのです。

つまり、私たちのような「硬派なバトルファン」にとってはノイズに見える要素も、作品全体のパイを広げるためには必要不可欠な成分なのかもしれません。「恋愛があるからこそ、普段バトル漫画を読まない層も読んでくれている」。そう考えると、この恋愛パートは作品が打ち切りにならず、長く続いていくための「生命維持装置」のような役割を果たしていると言えるでしょう。

ラストに向けた伏線?恋愛がバトルの起爆剤になる未来

次に、物語構造としての必然性です。今は「じれったい」「進まない」と感じるこの関係性が、実はクライマックスに向けた巨大な「タメ」である可能性です。少年漫画の王道パターンとして、最終決戦でのパワーアップや逆転の鍵を握るのが「愛の力」であることは珍しくありません。現在の煮え切らない関係が長く続けば続くほど、二人が結ばれた時、あるいはどちらかが危機に陥った時の爆発力は凄まじいものになります。

例えば、オカルンが真の意味で覚醒し、最強の敵を倒す瞬間に必要な最後のピースが「モモへの明確な愛の自覚」だとしたらどうでしょうか? 今の「うざい」と感じる過程のすべてが、その瞬間のカタルシスを最大化するための伏線になります。「あのグダグダがあったからこそ、このシーンが泣けるんだ!」と手のひらを返す日が来るかもしれません。作者は、そんなロングスパンでの感情設計をしている可能性があるのです。

作者・龍幸伸先生が描きたい「思春期のリアル」

最後に、作者である龍幸伸先生の作家性について考えてみましょう。インタビューなどで語られることもありますが、龍先生は「変なもの」や「オカルト」と同じくらい、「思春期の人間臭さ」を描くことにこだわりを持っています。かっこいいヒーローではなく、悩み、空回りし、異性を意識して挙動不審になる等身大の少年少女。それこそが、先生が描きたい「リアリティ」なのかもしれません。

私たち読者は「漫画的なかっこよさ」を求めがちですが、現実の高校生の恋愛なんて、傍から見れば痛々しくてじれったいものです。その「かっこ悪さ」も含めて肯定し、丁寧に描写することこそが、ダンダダンという作品のテーマである「青春」の表現なのかもしれません。単なるバトル漫画の枠に収まらず、キャラクターの人生そのものを描こうとする作者の強い意志が、あの恋愛描写には込められているのです。

まとめ:恋愛が「いらない」と感じることこそ、ダンダダン愛の証拠

ダンダダンの恋愛パートを「いらない」と感じるのは、作品に対する熱量が高い証です。もし本当に無関心なら、そもそも違和感すら覚えないでしょう。「最高に面白いバトル漫画なのに、恋愛がノイズに聞こえる」と思ってしまうのは、私たちがそれほどこの世界観の完成度を信じ、もっと純粋に楽しみたいと願っているからにほかなりません。

恋愛への苛立ちは「作品の完成度が高いからこそ」生まれる

恋愛パートが浮いて見えるのは、他の要素――特に画力・演出・テンポ――が圧倒的に完成されているからこそです。どのバトルも作画も主人公の成長も完璧に近いため、わずかな違和感がより大きく感じられてしまう。つまり「恋愛がいらない」と思う感情は、「それ以外が神レベル」だからこそ生じる贅沢な不満なのです。

「恋愛ノイズ説」はファンの“愛ゆえのツッコミ”

SNSで見かける「恋愛ノイズ説」も、突き詰めれば愛の裏返しです。多くのファンは、「この漫画を全力で推したいのに、恋愛展開が足を引っ張っているようで悔しい」と感じている。ネガティブな意見に見えて、実は「もっと完璧であってほしい」という願望が潜んでいます。恋愛描写への違和感を共有すること自体が、ファン同士の連帯感を強める役割を果たしているのです。

愛と違和感の共存こそ、ダンダダンの魅力

最終的にたどり着くのは、「恋愛が鬱陶しい」と思いながらもページをめくってしまう自分の矛盾です。それでも読む、やめられない。そんな複雑な感情こそ、ダンダダンがただの娯楽ではなく、人の心を動かす作品である証です。愛と違和感が同居しているからこそ、議論が生まれ、読み返すたびに新しい発見がある。恋愛要素を“ノイズ”と感じるあなたこそが、この作品を最も深く味わっている読者なのです。